「俺が何者だと教えてくれるものは誰だ?」
−シェイクスピア「リア王」より
「――どなたですかな」
「私は、ICPOの銭形と申します。
本日、奴の予告状が入ったことをお聞きして、こちらに参りました」
「あなた一人で?」
「ええ。ルパン三世の専任捜査官ですから。
勿論部下の者たちは、後ほどこちらにお邪魔させていただくことになります」
「…よろしく頼みますよ」
「お任せください。標的には、指一本触れさせませんとも」
名乗る度に、考える。
あの男を捕らえられるのは自分しかいないのだと、
信じたいのは相手ではなく、俺自身なのだと。
言い聞かせて、自分自身を納得させるために、奮い立たせるために名乗る。
名乗ることは誇らしくありたいと思いながら、その実なれない自分を自覚する。
俺は誰だ?
俺が何者だと教えてくれる誰かはいるのか?
俺は俺か?
俺が俺だと答えてくれるのは、やはり俺しかいないのか?
だとしたら、名を名乗ることは、ひどくあやふやなものでしかないのだ。
自分の肩にのしかかる、いくつかの名でさえも。
だから、名乗る度に思うのだ。
どうか、信じてほしい。
どうか、信じないでほしい。
俺が、奴を逮捕することを。
2.名を名乗る
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